豊のこと (6)

 

私へ  ~豊の言葉「颱」№319 展望台より~

 

「私へ」  榮井豊

「感じる」と「思う」は、その人そのものだと思う。だけど「自分そのもの」に

素直に従える人はそんなにいない。

僕もそうだけど、たいていの人は「自分そのもの」より「常識」に従ってしまう。

「懺悔」

目の前の花が

美しいのか、美しくないのか

 

誰かに聞いて

  

その答えを言いわけにして

  

今日まで生きてきました。

  

それでも「自分そのもの」でいようとすると、「常識」や他の人の「自分そのもの」

とぶつかってしまう。

争い事は苦手。必要以上に卑屈になったり、むやみに傲慢な態度をとったりしている。

  

「原因」

  

誰にも僕のホントウはわから

 ない

と思う

同じように僕にも誰かのホン

 トウは

きっと、わからない

と思う

誰かのワカルは

その誰かのわかる範囲で

僕のワカルも

僕のわかる範囲のことだ

と思う

誰かのワカルも僕のワカルも

他の人のホントウには

けっしてとどかない

と思う

だから、

誰かのホントウは

その誰かだけのもので

僕のホントウは

僕だけのものだ。

と思う

だからこそ

僕がこの世に居る意味もある

 のだろうと思う

だけど、

とても疲れる

「感じ」てしまったらしかたがない。「思って」しまったこともどうしようもない。

その後は「感じ」たこと、「思って」しまったことに正直でいるのか、押し隠すのか、

それは運命といってもいいような気がする。

「私へ」

論ずるのはやめて詩を書こう

「正しい」と「間違っている」は

いつだって平気な顔で入れ代

 わる

論ずるのはやめて詩を書こう

自分と向き合い、自分と語り

自分を見つめて、自分に問う

きっと自分の中にしか

自分の答えはないのだから

論ずるのはやめて詩を書こう

人は皆

それぞれに自分なのだから

十代の少年のようなことを書き連ねてしまった。

そう言えば、ちゃんとした十代を過ごさなかったような気がする。