豊のこと (4)

 

「川柳」   ~思いを言葉に~

 

「この人の選ぶ川柳はおもしろいなあ」と豊が言い出したのは、結婚してまもな

くだったと思う。所帯をもって、神戸新聞を取るようになり、朝一番に新聞を広げ

る生活が始まった頃だ。豊が注目したのは、新聞に掲載されている柳壇だった。

 当時の神戸新聞の川柳の選者は時実新子さんだ。彼女が選ぶ川柳は、豊が
 今まで思っていた川柳とはまるで違うものだった。そこには生き生きとした人間
 がいて、凝縮された思いが満ち溢れていた。

「こういうのも川柳なんやな」とつぶやいていた豊はまだまったく短詩形について
 知らなかったし、勉強しようとも思っていなかった。川柳と俳句は五七五 短歌は
 五七五七七.俳句には季語があって川柳にはない。で、短歌と和歌ってどう違うの?

位の知識だったのではないかと思う。

 豊にとって、川柳は「うまいこといいよるなあ」というものだったので、その当時
 あちこちの募集に応募していた川柳もそういうものが多かった。もともと五七の
 リズムが身の内にある豊にとって十七文字で何かを伝えることはごく自然な行為

だったので、何の気なしに書いては応募していたし、その作品は「うけるかどうか」
 が価値基準だった。いや作品とも思っていなかったように思う。入選したのもあり、

しなかったのもあり、どれも言葉遊びの延長の楽しみで、うければOK、うけなけ
 れば残念程度の話だった。

 もちろん、その当時から豊にも好きな句や歌はあった。

 好きな言葉は一度で覚えてしまうのが豊の特技だったから、教科書や新聞に出
 ていた作品をそらんじていることもしょっちゅうだったが、基準はいつも「自分が好

きかどうか」だった。

 しばらく、読者として川柳を楽しんでいた豊がぽつんと「ここに出してみようかな」

とつぶやいたのは、半年ほど経ってからのことだ。

 こうやって豊の投稿は始まった。神戸新聞の柳壇は毎月「題」が出て、それに従
 って投稿された作品を時実さんが選び毎週一回掲載される。最初の頃、うまく出来
 たと思う作品が選ばれず、自分ではそうとは思えない作品が選ばれては首をかし
 げる豊がいた。選ばれた作品を読んで、こういうのがいいのかと思って作った作品
 が今度は選ばれない。そんなことの繰り返しの中で、豊は次第に作品を作ることに
 のめりこみ始めた。

 

  

 こうして、自分の中の言葉を探す作業に、自分の中の思いを探す作業が加わり、
  思いを言葉に移し変えてゆく作品作りが始まった。

 それは人に受けたいと思って作っていた標語やコピーと同列にあった川柳や、
 俳句や短歌という短詩形が豊の中で違う位置を占めていく始まりでもあった。

何年ほど投稿を続けていたかを覚えていない。手元に作品も残っていない。

 何度か掲載されていたが、特に評価が高かったという記憶もない。時実さんの

作品集を読んで、楽しんでいたが、主宰の会へ参加しようともしなかった。

 しかし、豊は真剣に川柳を作り、自分の中の表現したいものと向かい合っていた。

 その結果、「題」にあわせて作品を作ることに飽き足らなくなり、十七文字だけの
  世界では表現したいもの全てが表現できないと感じるようになっていった。

       

  この後、豊は一行詩と同人「颱」に出会い、短詩形というくくりの中で、あらゆる
 可能性を試してゆくようになる。

豊の作品には十七文字の作品も多くある。季語のないその作品は川柳と呼ばれ
 るのだろうかと門外漢の私は考えることがある。豊に聞けば、「それもこれも俺の
 作品」というと思うが。