豊のこと (5)

 

「ニュアンス」と「イメージ」  ~豊の言葉「颱」№291展望台より~

 

「屁理屈です」  榮井豊

十年ほど前に女房が福知山で女子高校の教師をしていた頃の話です。ある朝、
  同僚の初老の女教師がある生徒に声をかけました。

「○○さん、お元気?」

その生徒は明るくこう答えました。

 「だめです。先生、死んでます」

女教師は絶句してしまったそうです。

 

僕は、言葉には「意味」の他に「ニュアンス」とイメージ」とがあると思っているの
ですが、この「ニュアンス」と「イメージ」は「意味」よりもはるかに厄介な代物です。
「意味」ならば覚えてしまえばそれでよいわけです。忘れたり知らなければ辞書を
引けば載っています。だけど「ニュアンス」やイメージ」は人それぞれの心の中に
あるものなので感じ取るしかありません。そしてそれは時代とか社会とかその人
の育ってゆく環境によってどんどん変化していきます。最初の話はその一例です。

 

この場合、初老の女教師にとって「死」という言葉はある意味では不吉な、また
ある意味では厳粛な、つまりは恐ろしい「イメージ」を持つ言葉であり、人の命が
亡くなるという「意味」以外になんの「ニュアンス」もない言葉であるわけで、そんな
言葉が日常的な挨拶の中で突然出てきたことに驚愕し、対応の仕様を失ってしま
ったわけです。

   

でもその生徒にはなぜ教師が絶句してしまったのか多分理解できなかったと思い
ます。

彼女にとってこの「死」はちょっと落ち込んでいる気分や元気のない状態を相手
に伝える「ニュアンス」そのものであり、それこそ日常的な言葉でいう「イメージ」
以外の何物でもないからです。確かにある世代以降では「死」のこういう使い方が
日常生活の中で定着しているみたいです。彼女の世代にとって、ひょっとしたらそれ
はもう「ニュアンス」ではなく「意味」なのかもしれません。

  

僕は国語学者でもないし、ことばというのはその性質から本来変化し続けるもの
だと思っているので、この女生徒のいわゆる国語の乱れについてはとやかく言うつ
もりはありません。「ぜんぜん」を肯定の強調に使うことを国語の乱れについてやか
ましく言う人たちがよく例に出しますが、その人たちだって同じように元は否定を表
わす「まったく」や「なかなか」を肯定に使って何も違和感を感じてはいません。
言葉とはそういうものだと思っています。ただ、僕は国語の乱れをやかまして言う人
たちについても別段否定するつもりはありません。彼らが培ってきた言葉に対する
「ニュアンス」や、「イメージ」は、確固としてそこにあり変えようもなく、他の「イメージ」
や「ニュアンス」への違和感は拭い去りようのないことだと思います。結局は、言葉に
対して共通の「イメージ」と「ニュアンス」を持っているかどうかということだと思います。
  

だけど考えてみればこれはある言葉に対する自分の「イメージ」や「ニュアンス」が
他の人には通用しないかもしれないということで、言葉を表現の手段として選んだ者
の一人として、とてつもなく不安な気持ちにさせられることです。

  

実をいうと、僕はこの不安につきまとわれているんです。