豊のこと (3)

 

「放哉」   ~惹かれるもの 呼ばれるもの~

 

「放哉に呼ばれている気がするんだよな」

妙にさっぱりした顔で、豊がそういって小豆島に旅立ったのは、平成12年の
春だ。

入選した第2回の「放哉賞」の授賞式のためだった。

それまで、賞をいただくことがあっても、授賞式に参加するなどと言ったことの
なかった豊が、この授賞式には行きたいと仕事の段取りをし始めた時、「なぜ?」
と聞く私に豊は、「呼ばれてるから」とだけ答えた。

「やっぱり俺は放哉だな」

大きな声で一人言を言いながら、尾崎放哉の作品集を読みふけっていたのは、
その前の年のいつ頃だったろうか。

「俺は放哉」とどういう意味で言っていたのかは知らない。豊がそういう大声で
一人言を言っているのは、心の中の思いが噴き出して、声に出てしまったような時
で、そんな時に説明を求めても、うまく言葉では説明できずに困ってしまうことが多
かったから、私もあえて説明を求めたりはしなかった。

しかし、そんな一人言を言いながら、それまでも何度か目を通していた放哉の作
品集を繰り返し読み始めた頃から、豊の作品は変わり始めた。

その頃の豊は、一行詩を書くことが面白くてしょうがない時期を過ぎ、表現する
喜びや苦しみに振り回されながら、作品を作っていた。

そして、動かしようにも動かせない感性に沿って書くしかない自分の創作姿勢を
十分承知しながら、豊は自分の作品を理解してもらいたい、共感してもらいたいと
渇望していた。

どこに自分の作品の居場所があるのか。どこに自分の作品の読み手はいるのか。

豊はずっと考え、勉強し、その為に暗中模索の日々を送るようになっていた。

自分の作品の居場所を探すように、七転八倒するように書いていた豊の作品は、
そのためか、良くも悪くも迷走しているようにも見えた。

しかし、放哉を読み始めた頃から、なぜか、生まれてくる作品世界は自分を含め
すべてに対して素直になっているように見えた。どこがというのでもないし、改めて
放哉に影響を受けているという風でもなかったが。

「放哉は今の俺の年で死んだんやな・・」

といったのは、前の年の同じ頃だ。「完結したんかなぁ」とも言っていた。

「やっぱり、山頭火やなくて、放哉やな」という言葉も何度か聞いた。

  

 

私は豊と放哉の話をしたことはあまりない。豊の中でまとまりきらない言葉が
まとまるまで待とうと思って、待っていてそのままになってしまった。

何を考えていたのかわからないが、小豆島から帰ってきた豊は笑顔で、「行っ
てよかったわ」と言い、そのまま日常の暮らしにもどった。

そして、またゆっくり話を聞こうと思っていた矢先、病に倒れ、次の年の春に
逝ってしまった。

それが何かの縁だったのかと考えた事もあったが、今は特にそんな風にも思わ
ない。 ただ、「俺は放哉」といった豊の作品が、いったいどこへ行こうとしていた
のかが気になる

豊が逝った時、豊の作品は「途上」だったのか「完結」だったのかと考えたことが
ある。しかし、その時も今も結論は出ていない。

ただ、豊はその時期、呼ばれるべくして放哉に呼ばれたのだろうと最後の年の作
品を見ながら考えるばかりである。