追悼文
︻
日記より︼
葉桜の頃
、
少し興奮からさめて、
また日頃のペ❘
スに戻ろうかという感じで
、
しばらく読めなかっ
たお便りをひらいてみる
。
あるお便りから、
神戸の一行詩で友人だっ
た、
榮井豊さんの死を知る
。
42歳。
あんた、
早すぎるよ。
せっ
かちだよ
。
死ぬのぐらい遅刻しなさいよ。
、
生き急いだ友へ、
そしてよく語っ
た。
彼は私といる間は、
何か不満で
、
それをどう言葉にしていいのか、
もどかしそうであ
っ
た。
﹁
現実そのもの﹂
﹁
ありのまま肯定﹂
であっ
たからであろうか
。
現実は、
しばしば矛盾でも平気な顔をし、
しぶと く 生き
、
自分を愛し、
なんでもないことに楽しげであり
、
ぜんぶええじゃ
ないかといい、
そしてきまぐれだからである
。
暖かいかと思うと冷酷で、
誠実でありズルいところもあり
、
美しいかと思うと残酷である。
それでいて自分は傷つかぬからである
。
そういっ
たものを私の中に見たからであろう
。
﹁
金澤さんは現実ありのままだ。
そして天に愛されている。
僕はそれがいやだ
。
﹂
こういうことを言われたことがある。
、
私には何でもうちあけるように言う人であっ
た。
、
黙っ
てそれらを聞いていた。
何を言っ
ても彼を傷つけるからである
。
黙っ
ていても、
傷つけたであろう。
っ
ておこう。
彼は決して﹁
自分が傷つきやすいのは強調するが
、
人を傷つけることには鈍感
﹂
な、
よくあるタイプの人間ではない。
﹁
僕は肉体労働者だよ。
体には自信がある﹂
こう言
っ
て笑っ
た彼のことが悲し く思い出されるのだ。
︵
童心の会︶